父が決めた婚約者は、私の天敵上司です
Chapter 1 — 父が決めた婚約者は、私の天敵上司です
「結婚してください、南さん」
開口一番、そう言われた時、真行寺南は一瞬、自分が何のドラマの撮影現場に迷い込んだのかと思った。目の前に跪いているのは、東雲陸。若くして東雲グループを率いる、誰もが認める御曹司だ。その彼が、なぜ私に、こんな場所で、プロポーズを?
「東雲専務、冗談はやめてください」
南は平静を装ったが、心臓は激しく鼓動していた。ここは、表参道にある高級フランス料理店。会社の接待で何度か来たことがあるが、まさかこんな形で利用されるとは予想もしていなかった。しかも相手は、社内で最も警戒している人物の一人だ。
「冗談ではありません。真剣です」
陸は顔を上げ、南を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、いつもの冷たい光はなく、ただひたすらに真摯な色が宿っていた。それが余計に、南を混乱させた。
「理由は?」
南は尋ねた。もちろん、彼が自分に気があるなどとは微塵も思っていない。東雲陸は、常に冷静沈着で、感情を表に出すことのない男。そんな彼が、突拍子もなく結婚を申し込むなど、裏があるとしか思えない。
「理由は、後継者問題です」
陸は淡々と答えた。「東雲グループは今、大きな転換期を迎えています。父は病に倒れ、いつ何があってもおかしくない。しかし、私にはまだ、グループを背負う覚悟も、力も足りない。そして何より、私にはそれを支えてくれる、信頼できる伴侶が必要なのです」
「それが、私だと?」
南は信じられない思いで聞き返した。自分はただの社員に過ぎない。彼のような立場の人間の妻として、相応しいはずがない。
「南さんなら、私を支えてくれると信じています。あなたは聡明で、誰よりも冷静な判断力を持っている。それに、何よりも……」
陸は言葉を区切り、南の手を取った。「あなたには、私にはないものを持っている。それを、私は必要としているのです」
南は陸の手を見つめた。その手は、南の手よりも大きく、温かい。しかし、その温かさの奥には、深い孤独が隠されているようにも感じられた。
「お断りします」
南は迷わず答えた。陸の申し出が、自分にとってどれほど危険なものか、直感的に理解したからだ。彼と結婚すれば、自分の人生は大きく変わってしまうだろう。そして、それは決して良い方向には進まない、と。
「理由は?」
陸は驚いたように顔を上げた。まさか断られるとは思っていなかったのだろう。
「私は、あなたのような立場の人間の妻として生きる覚悟はありません。それに、愛のない結婚など、考えられません」
南はきっぱりと言い切った。これは、自分の人生を守るための、唯一の選択だと信じて。
「愛は、後から育めばいい。それに、あなたには拒否権はない」
陸の表情が、一瞬にして冷酷なものに変わった。「これは、あなたへの命令です。真行寺南、あなたは明日から、東雲陸の婚約者として、私の傍にいることになります」
南は息を呑んだ。これが、東雲陸という男の本性なのか。今まで見せていた穏やかな表情は、全て仮面だったのか。恐怖と絶望が、南の心を締め付ける。
「……まさか、お見合いの席で逃げ出した令嬢の身代わりに…?」
南の脳裏に、数日前に噂で聞いた、陸の母が決めたお見合い相手の話がよぎった。
陸は冷たい笑みを浮かべた。「お見合い?そんなもの、最初から必要なかった。私が欲しかったのは、真行寺南、あなただけだ」
その言葉と同時に、店の奥から、一人の女性が現れた。深紅のドレスを身に纏い、南を憎しみのこもった視線で見つめている。その顔は、南が数日前に写真で見た、陸のお見合い相手、九条瑠璃子だった。
「陸様…!どういうことですか!?」
瑠璃子の悲鳴に近い声が響き渡る。南は混乱と恐怖で、身動きが取れなくなっていた。一体、何が起こっているのか。なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。そして、これから、自分の人生はどうなってしまうのか。
陸は瑠璃子を一瞥し、冷たく言い放った。「邪魔者は消えろ」
その言葉と同時に、黒服の男たちが現れ、瑠璃子を連れ去ろうとする。瑠璃子は必死に抵抗したが、無駄だった。彼女の悲鳴が、南の耳にいつまでも残響した。
陸は再び南に向き直り、その瞳には狂気じみた光が宿っていた。「さあ、南さん。覚悟はいいですか?私の妻になるということは、地獄に足を踏み入れるということですよ」
陸は南の手を強く握りしめた。その手は、先程の温かさとは裏腹に、氷のように冷たく感じられた。南は震えながら、陸の顔を見つめ返した。自分の運命が、今、まさに大きく変わろうとしていることを悟りながら。
その時、店の扉が勢いよく開け放たれた。逆光の中に現れたのは、南の会社のライバル会社である黒崎コーポレーションの御曹司、黒崎颯太だった。
「東雲、手を離せ!」
颯太の怒声が、店内に響き渡った。南は驚きで目を見開いた。なぜ、彼がここに?そして、これから一体何が起こるのだろうか。南の心臓は、再び激しく鼓動し始めた。
「南さん、僕が必ずあなたを助けます」
颯太は南に向かって、力強くそう叫んだ。