左手の薬指だけが知っている

Chapter 1 — 左手の薬指だけが知っている

「借金、肩代わりしてあげましょうか?」

男の声は、まるでベルベットのように甘く、しかし、その奥には冷たい刃が潜んでいるようだった。私は顔を上げた。豪華絢爛なホテルのラウンジ、シャンデリアの光を浴びて、五十嵐諒は微笑んでいた。完璧なまでの美貌。しかし、その瞳には、底知れない闇が宿っている。

「どういう意味ですか?」

震える声でそう返した。背筋を冷たいものが這い上がってくる。今日の私は、どん底だった。デザイン事務所は倒産、両親の残した借金は膨らむばかり。藁にも縋りたい気持ちだったが、まさかこんな形で救いの手が差し伸べられるとは。

「そのままでしょう。鳳日葵さん。あなたの抱える莫大な借金、私が代わりに支払います。その代わり…」

彼はグラスを傾け、赤いワインを見つめた。その表情は、まるで獲物を狙う獣のようだった。

「私の妻になってください」

衝撃が全身を駆け巡った。妻? この、誰もが憧れる五十嵐グループの御曹司の? ありえない。まるでドラマのような展開に、現実感がまるでなかった。

「冗談、ですよね?」

「冗談に見えますか?」

彼は微笑んだまま、しかしその目は決して笑っていなかった。冷たい光を放つ瞳が、私を射抜く。

「あなたは、私がどういう人間か、何も知らない」

「知っていますよ。デザイナーとして、才能がある。そして…」

彼は少し身を乗り出し、私の耳元で囁いた。

「…借金で首が回らない、可哀想な女性だ」

屈辱が胸を締め付けた。彼の言葉は、真実だった。私は、今まさに崖っぷちに立たされている。

「条件は?」

覚悟を決めて、そう尋ねた。この男が、ただの善意でこんな申し出をするはずがない。何か裏があるに違いない。

「簡単です。一年間、私の妻として、表向きだけ夫婦を演じてくれればいい。それだけです」

「一年間…?」

「そうです。一年後には、あなたは自由の身。借金も全て清算され、新しい人生を歩むことができる」

まるで悪魔の囁きだった。しかし、私には他に選択肢がなかった。借金取りに追われる毎日、未来への希望など、微塵も感じられない日々。それを考えれば、一年間、仮面夫婦を演じることなど、大したことではないように思えた。

「分かりました。お受けします」

私の返事を聞くと、彼は満足そうに微笑んだ。そして、グラスを掲げた。

「それでは、契約成立を祝して」

その夜、私は五十嵐諒の車で、彼の豪邸へと向かった。東京の夜景を見下ろす高台にそびえ立つ、巨大な洋館。まるで映画に出てくるような、非現実的な空間だった。しかし、その豪邸には、どこか冷たい、閉ざされた空気が漂っていた。

使用人たちが深々と頭を下げる中、私は彼に導かれるように屋敷の中へと足を踏み入れた。豪華な調度品、広々としたリビング、そして…廊下の奥から聞こえる、かすかな泣き声。

「…今の、何の音ですか?」

思わず尋ねると、彼は一瞬、表情を曇らせた。そして、すぐにいつもの冷たい微笑みを浮かべた。

「気のせいでしょう。疲れているんですよ」

彼はそう言って、私の手を引いた。しかし、私は確かに聞いた。あの、悲しげな女の泣き声を。

その夜から、私の偽りの結婚生活が始まった。豪華な食事、華やかなパーティー、そして…冷たいベッド。五十嵐諒は、私に一切触れようとしなかった。まるで、私をただの飾り物のように扱っているようだった。

数日後、私は屋敷の中を散策していた。広大な庭園、美しい花々、そして…屋敷の奥にある、立ち入り禁止とされた一室。何気なく近づくと、中からかすかな物音が聞こえた。鍵穴からそっと覗いてみると…

そこには、一人の女性がいた。ボロボロの服を着て、うつむきながら泣いている。あの夜、私が聞いた泣き声の主だった。彼女は誰なのか? そして、なぜこんな場所に閉じ込められているのか?

背後から、冷たい声が響いた。

「そこで、何をしていますか?」