離婚した元夫から、毎月届く花束の意味
Chapter 1 — 離婚した元夫から、毎月届く花束の意味
降り止んだばかりの雨が、アスファルトに黒い染みを作っていた。紫陽花の香りが鼻腔をくすぐる。六月。私が一番嫌いな季節だ。五年前のあの日も、こんな雨上がりの日だった。
「茉莉、おはよう」
背後から聞こえた低い声に、私の心臓は一瞬、止まったかのように感じた。桃園慧。私の…元夫。いや、正確には、五年前に死んだはずの、元夫。
振り向くと、彼はそこに立っていた。あの頃と変わらない、精悍な顔立ち。漆黒の髪。吸い込まれそうな深い藍色の瞳。ただ、纏う空気が少し違う。以前よりも、どこか冷たく、鋭い。
「…慧?」
掠れた声で、彼の名前を呼んだ。まさか、幻覚を見ているのだろうか。それとも、夢? 五年もの間、毎晩のように見てきた悪夢の続きだろうか。
「久しぶりだな、茉莉」
彼は薄く笑った。その笑顔は、記憶の中の彼とは、まるで別人のようだった。あの頃の彼は、もっと優しく、温かかった。私の名前を呼ぶ声も、もっと甘かった。
「どうして…ここに?」
「お前こそ、どうしてここにいるんだ?」
慧は冷たい視線を私に向けた。その瞳には、かつての愛情の欠片も残っていない。まるで、私をただの他人を見ているかのようだった。
「ここは…私の家よ」
「そうか。だが、ここはもう、俺の家でもある」
彼の言葉の意味が、すぐに理解できなかった。どういうこと? ここは私が、五年前に離婚してからずっと一人で住んでいるマンションだ。彼が来る理由など、どこにもないはずなのに。
「…何を言っているの?」
「お前は忘れたのか? 俺は、日向グループの跡取りだ。このマンションは、グループが所有している。そして、俺はいま、グループの代表取締役だ」
日向グループ…! 彼の言葉に、私は息を呑んだ。五年前に離婚した時、彼はまだ専務だったはずだ。それが、いつの間に代表取締役に…? そして、このマンションが、日向グループの所有物だったなんて、全く知らなかった。
「つまり…あなたは、ここを追い出すために来たの?」
慧は何も言わずに、私を見つめ返した。その沈黙が、肯定の答えだった。私は唇を噛み締めた。五年前に彼が死んだと聞かされた時、私は全てを失ったと思った。でも、まだ、失うものがあったのだ。
「…わかったわ。出ていく」
震える声で、そう言った。彼と顔を合わせるのも、声を聞くのも、もう耐えられない。この場所から、一刻も早く逃げ出したかった。
「そうか。だが、一つ条件がある」
私の言葉を聞いて、慧はゆっくりと口を開いた。
「条件…?」
「そうだ。お前には、俺の…偽物の婚約者になってもらう」
彼の言葉に、私は完全に思考停止した。偽物の婚約者? 一体、何を考えているの? 五年前に死んだはずの元夫が、なぜ今、私の前に現れて、こんな突拍子もないことを言い出すのだろうか。
「…どういうこと?」
「説明する時間はない。答えはYesかNoか、どちらかだ。Noなら、すぐにここから出て行ってもらう。Yesなら…」
彼は私の目をじっと見つめ、ゆっくりと続けた。
「…お前の過去を、全て暴いてやる」
彼の言葉は、氷のように冷たく、私の心臓を貫いた。過去…? 彼が知っているはずのない、私の過去とは一体…? 私は恐怖で体が震えるのを感じた。一体、何が始まるのだろうか。
震える指先で、私は紫陽花の咲く庭を見つめた。雨上がりの空に、暗雲が立ち込めている。まるで、私の未来を暗示しているかのようだった。
その時、背後から聞き慣れた声が響いた。「お姉さま、どちらへ…」振り返ると、妹の玲奈が立っていた。慧の姿を認めると、彼女は信じられないといった表情で固まった。「…お兄様?」