婚約者は人形

Chapter 1 — 婚約者は人形

「夏帆、お前は三条家との結婚に感謝すべきだ」

父、美園宗一郎の声は、冷たいシャンデリアの光を反射し、一層鋭く夏帆の耳に突き刺さる。広大な応接間には、高級そうな絨毯が敷き詰められているが、彼女の足元だけが氷のように冷たい。

「感謝、ですか?」

夏帆の声は震えていた。目の前の父は、いつもそうだ。彼女を一個人としてではなく、美園グループの駒としてしか見ていない。

「そうだ。三条家との縁組は、美園グループの未来を確固たるものにする。お前はそのための生贄だ」

宗一郎の言葉は、容赦なく夏帆の心を抉る。生贄。まるで中世の物語に出てくる悲劇のヒロインだ。

夏帆は、目の前の豪華な花瓶に目をやった。そこに活けられた薔薇は、完璧な美しさを湛えているが、どこか息苦しそうだ。まるで、自分を見ているかのようだ。

「章様は、どんな方なのですか?」

夏帆は、震える声で尋ねた。まだ一度も会ったことのない婚約者のことを。

「三条グループの御曹司だ。優秀で、容姿端麗。お前に不足はないだろう」

宗一郎は、それだけを言い放った。まるで、商品のスペックを述べるかのように。

数週間後、夏帆は三条邸へと向かう車の中にいた。窓の外を流れる東京の景色は、いつもと変わらないはずなのに、どこか灰色に見えた。これから会う章という男が、自分の人生を大きく変えてしまうのだろうか。

三条邸の門をくぐると、広大な庭園が広がっていた。手入れの行き届いた庭木は、まるで完璧な人形のようだ。夏帆は、深呼吸をして、覚悟を決めた。自分の人生も、この庭園のように、完璧に管理されるのだろうか。

三条邸の玄関で、夏帆は一人の男性に出迎えられた。黒髪に、涼やかな目元。噂に違わぬ美貌の持ち主だ。しかし、その瞳には、まるで感情が宿っていないかのように、冷たい光が宿っていた。

「美園夏帆さん、ようこそ。私が、あなたの婚約者の三条章です」

章の声は、まるで機械のように無機質だった。その瞬間、夏帆は悟った。この男は、ただの人形だ。そして、自分もまた、人形として生きていくのだと。

「こちらへどうぞ」

章は、夏帆をリビングへと案内した。豪華な調度品に囲まれた空間は、まるで美術館のようだ。しかし、どこか殺風景で、人の温もりを感じさせない。

「お茶の準備をさせます」

章は、そう言って、使用人に指示を出した。その間も、夏帆はただ立っているしかなかった。まるで、展示物のように。

やがて、お茶が運ばれてきた。章は、夏帆の向かいに座り、静かに茶を啜った。その姿は、完璧なまでに美しいが、どこか不気味だった。

「美園グループのことは、よく存じております」

章は、突然そう切り出した。その声は、先ほどよりも少しだけ、感情がこもっているように聞こえた。

「三条グループも、同様です」

夏帆は、平静を装って答えた。しかし、心臓は激しく鼓動していた。この男は、一体何を考えているのだろうか。

「今回の縁組は、両家にとって、最良の選択でしょう」

章は、そう言って、微笑んだ。しかし、その笑顔は、どこか歪んでいた。

「ええ、そうですね」

夏帆は、ぎこちなく微笑み返した。その瞬間、章の瞳の色が変わったように見えた。一瞬、深い闇が宿ったような、そんな気がした。

「ところで、夏帆さん。あなたは、私を愛せますか?」

章の問いかけに、夏帆は息を呑んだ。その瞳は、再び冷たい光を取り戻していたが、奥底には、狂気じみたものが潜んでいるように見えた。

「愛せる、かどうかは…」

夏帆は言葉を詰まらせた。愛せるはずがない。目の前の男は、ただの人形なのだから。

その時、章は立ち上がり、夏帆に近づいた。そして、耳元で囁いた。

「愛せなくても、構いません。あなたは、私の人形であれば、それでいいのです」

夏帆は、背筋が凍り付くのを感じた。その瞬間、部屋の電気が消え、暗闇が二人を包み込んだ。そして、章の声が、再び聞こえた。

「さあ、人形になりましょう」

その言葉を最後に、夏帆は意識を失った。

次に目を覚ました時、夏帆は見慣れない部屋にいた。手足は拘束され、身動きが取れない。そして、目の前には、あの人形のような男、三条章が立っていた。

「おはようございます、夏帆さん。さあ、新しいあなたを始めましょう」

章は、そう言って、不気味な笑みを浮かべた。夏帆の絶望的な叫びは、誰にも届かない。