許嫁のいない週末が、一番寂しい

Chapter 1 — 許嫁のいない週末が、一番寂しい

「紅林さんとの婚約、破棄させていただきます。」

春の陽気が心地よい、表参道のカフェ。しかし、私の心は嵐のようだった。向かいに座る遠野壱成——私の婚約者は、涼しげな顔でそう告げた。彼の瞳は、いつもどこか遠くを見ているようだった。

私の名前は、鮫島苑子。ごく普通の、少しばかり内気なOLだ。まさか自分が、遠野グループの御曹司である壱成さんと婚約することになるとは、夢にも思っていなかった。全ては、両家の親が決めたこと。いわゆる「お見合い結婚」というやつだ。

遠野グループは、日本を代表する大企業。一方、鮫島家は、代々続く小さな呉服屋を営んでいる。釣り合わないことは、百も承知だった。それでも、壱成さんは優しかった。月に一度の食事会では、私の好きな料理を予約してくれたし、退屈しないように、色々な話題を振ってくれた。彼の優しさに、私は少しずつ惹かれていった。

「理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか?」

震える声で、私は尋ねた。平静を装っているつもりだったが、きっと顔は真っ青だろう。壱成さんは、少しの間、沈黙した。そして、ゆっくりと口を開いた。

「実は……好きな人ができたんだ」

その言葉は、私の胸に突き刺さった。予想していたことではあったけれど、実際に告げられると、言葉を失ってしまう。好きな人……。壱成さんのような完璧な人が、誰かを好きになるなんて。そして、その相手は、私ではない。

「お相手は、どなたですか?」

そう尋ねるのが、精一杯だった。壱成さんは、少し躊躇してから、答えた。

「香坂遥さん、というんだ。グループ会社の、秘書をしている」

香坂遥……。聞き覚えのある名前だった。彼女は、才色兼備で、社内でも評判の女性だ。壱成さんの隣に並ぶのにふさわしい、華やかな人。

「そうですか……。お幸せを、お祈りしています」

絞り出すように、私は言った。心の中では、激しい痛みが渦巻いていたけれど、それを悟られないように、必死で笑顔を作った。

「鮫島さんには、本当に申し訳ないと思っている。慰謝料は、きちんと支払うつもりだ。それから、君の家族にも、きちんと説明する」

壱成さんは、申し訳なさそうな顔で言った。慰謝料……。まるで、私たちはビジネスパートナーだったみたいだ。婚約という名の契約を、解除するための違約金。

カフェを出て、表参道の並木道を歩いた。春の風が、私の頬を撫でる。桜の季節なのに、私の心は、まるで冬のようだった。婚約破棄……。これから、私はどうすればいいのだろうか。

家に帰ると、母が笑顔で迎えてくれた。「苑子、壱成さんとのお見合い、うまくいったんでしょう? お父様も、とても喜んでいたわよ」

母の言葉が、胸に突き刺さる。私は、どうやって、このことを伝えればいいのだろうか。壱成さんとの婚約が破棄になったこと、そして、彼には好きな人がいることを……。

その夜、私は眠れなかった。何度も、壱成さんの顔が、香坂遥さんの顔が、頭の中に浮かんでくる。そして、気づいてしまった。私にとって、壱成さんはただの婚約者ではなかった。短い間だったけれど、私は、本気で彼を好きになっていたのだ。

数日後、会社に出勤すると、人事部長に呼び出された。「鮫島さん、少しお時間よろしいですか?」

いつも厳しい顔をしている人事部長が、珍しく穏やかな表情をしている。一体、何の話だろうか。不安な気持ちで、私は人事部長のオフィスに入った。

「実は、紅林グループから、鮫島さんに、出向の要請がありまして……」

紅林グループ……。それは、壱成さんの実家、遠野グループと並ぶ、日本を代表する大企業だった。なぜ、私が、紅林グループに出向することになるのだろうか。まさか、壱成さんの策略……?

人事部長は、続けた。「紅林グループの御曹司、紅林尊さんが、鮫島さんのことを指名されたそうです」

紅林尊……。それは、壱成さんの幼馴染で、ライバルでもある男の名前だった。なぜ、彼が、私を指名したのだろうか。まさか……。

「詳しい話は、紅林グループの人事担当から、後日連絡があると思います。鮫島さん、頑張ってくださいね」

人事部長は、そう言って、私を送り出した。オフィスに戻ると、同僚たちが、心配そうな顔で私を見ていた。「鮫島さん、大丈夫? 何かあったの?」

私は、大丈夫だと答えたけれど、心の中は、不安でいっぱいだった。紅林尊……。彼は、一体何を企んでいるのだろうか。そして、私は、これからどうなってしまうのだろうか……。

その日の夕方、会社の帰り道。突然、一台の黒塗りの高級車が、私の目の前に止まった。車の窓が開き、中から、見覚えのある顔が現れた。

「鮫島さん、少しお話があります。よろしければ、お茶でも」

そこにいたのは、あの紅林尊だった。彼は、冷たい笑みを浮かべながら、私を見つめていた。「まさか、あなたが……」

私の言葉を遮るように、彼は言った。「さあ、乗りませんか? 鮫島さんにとって、面白い話が聞けると思いますよ」