名家の花嫁は逃げ出したい
Chapter 1 — 名家の花嫁は逃げ出したい
「結婚してください」
春爛漫の桜並木の下、突然、見知らぬ男性にプロポーズされた。正確には「結婚を前提とした偽装婚約」の申し込み。ありえない。私は、望月久遠、25歳、普通の会社員。まさかこんなドラマみたいな展開が現実になるとは。
遡ること数時間前。私は会社の会議室で、頭を抱えていた。理由は明白。半ば強制的に参加させられたお見合いパーティーでの失態だ。名家の子息ばかりが集まる、息苦しい空間。私は、いつものように愛想笑いを浮かべることすらできず、早々に退散を試みたのだ。
「望月さん、少しよろしいですか?」
背後から声をかけられ、振り返ると、そこには見覚えのない男性が立っていた。二階堂丈と名乗る彼は、涼やかな眼差しで私を見つめていた。その視線に、なぜか言いようのない緊張を覚える。
「突然ですが、あなたに偽装婚約を持ちかけたいんです」
彼の口から飛び出した言葉に、私は完全に思考停止した。偽装婚約? 一体、何を言っているのだろうか。私が混乱していると、彼は落ち着いた声で説明を始めた。
二階堂家は、政財界に大きな影響力を持つ名家の一つらしい。丈さんは、その跡取り息子。しかし、彼は家の都合で決められた結婚を拒否したいと考えていた。そこで、私に白羽の矢が立ったというわけだ。
「メリットはあります。期間は半年。その間、相応の報酬をお支払いします。もちろん、婚約解消後、お互いの関係は一切干渉しません」
彼の提案は、あまりにも非現実的だった。しかし、私は彼の言葉に、どこか惹かれている自分に気づいてしまった。名家の御曹司との偽装婚約。そんな危険な橋を渡る理由なんて、私にはないはずなのに。
「お断りします」
そう言い放ったものの、彼の言葉が頭から離れない。家に帰り、一人暮らしのアパートで缶ビールを煽りながら、私は彼の提案を反芻していた。高額な報酬、半年という期間、そして……二階堂丈という男性への微かな興味。翌日、会社に行くと、デスクに見慣れない封筒が置かれていた。差出人は、二階堂丈。中には、一枚の招待状が入っていた。
『明日の夜、帝国ホテルにてお待ちしております』
一体、彼は何を企んでいるのだろうか。私は、招待状を握りしめ、震える手で電話をかけた。「……もしもし、二階堂さんですか?」
受話器の向こうから、低く落ち着いた声が聞こえた。「望月さん、お待ちしておりました」