別れた理由を、今なら言える
Chapter 1 — 別れた理由を、今なら言える
降り止んだ雨の匂いが、アスファルトから立ち上る。東京、表参道。行き交う人々は皆、どこか急ぎ足で、まるで私だけが取り残されたみたいだった。傘をたたむ私の目に飛び込んできたのは、忘れもしない、あの姿だった——仙道将。
「まさか…」
喉がカラカラに乾く。将は、大学時代の恋人だった。卒業と同時に、あっけなく別れを告げられた、私の初恋の人。あれから十年。彼は、以前にも増して洗練された雰囲気を纏い、大手IT企業「ネクサス・イノベーション」のやり手社長として名を馳せている。
一方、私はといえば、小さなデザイン事務所で地味な毎日を送る、ただのデザイナー。将との再会は、完全に予想外だった。
動揺を隠せない私をよそに、将はこちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。目が合う。
「…城ヶ崎?」
低く、甘い声。十年の歳月を感じさせない、あの頃と変わらない声だった。私の名前を呼ぶ彼の瞳には、驚きと、そしてほんの少しの…懐かしさが宿っているように見えた。
「…将、くん」
精一杯、平静を装って返事をする。心臓が早鐘のように打ち鳴らされていた。彼はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で立ち止まった。
「こんなところで会うなんて、偶然だね」
「…そう、ね」
ぎこちない会話が続く。将は私の顔をじっと見つめ、そして、ふいに笑みを浮かべた。
「実は、君に話したいことがあってね」
予想外の言葉に、私は息を呑んだ。話したいこと?今更、何を?
「今度、食事でもどうかな?」
誘われた。まさかの展開に、頭の中が真っ白になる。かつての恋人からの突然の誘い。それは、私にとって、甘美な罠の始まりだった。
数日後、私は指定されたレストランへと向かった。表参道の夜景が一望できる、高級フレンチレストラン。場違いな気がしながらも、私は将を待った。彼は約束の時間ぴったりに現れ、深々と頭を下げた。
「待たせてごめん」
「ううん、大丈夫」
メニューを広げながら、彼は穏やかに微笑んだ。しかし、その瞳の奥には、何かを隠しているような影が見え隠れしていた。食事は、ぎこちない会話で始まった。お互いの近況を報告し合い、当たり障りのない話をする。しかし、将の目的は、それだけではなかった。
「実は、君に頼みがあってね」
デザートが運ばれてきた頃、彼は切り出した。頼み?一体、何を頼まれるのだろうか。胸騒ぎがした。
「僕の…偽の婚約者になってくれないか?」
将の口から出たのは、予想だにしない言葉だった。偽の婚約者?一体、どういうこと?頭の中が混乱する私に、彼はさらに続けた。
「詳しい話は後でする。ただ、君にしか頼めないんだ」
彼の真剣な眼差しに、私は言葉を失った。十年ぶりに再会した元恋人からの、まさかの依頼。その裏には、一体どんな事情が隠されているのだろうか。そして、私はその依頼を受けるべきなのだろうか——。
その夜、私は眠れなかった。将の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。偽の婚約者。そんなことをして、一体何になるのだろうか。そして、もし引き受けたとしたら、私はまた、あの頃のように、彼のことを好きになってしまうのだろうか。
数日後、将から電話がかかってきた。「一度、詳しく話がしたい」と。指定された場所は、都心の一等地にある高級ホテルの一室だった。ドアを開けると、将は窓際に立って、東京の夜景を見下ろしていた。彼はゆっくりと振り返り、私に微笑みかけた。
「来てくれてありがとう」
部屋の中央には、大きなテーブルが置かれ、その上には、一枚の書類が置かれていた。それは…婚約契約書、だった。
「これは…?」
私が問いかけると、将は静かに答えた。
「僕と君の、偽装婚約の契約書だ」
契約書には、詳細な条件が記されていた。契約期間、報酬、そして…絶対に守らなければならない、ある秘密の条項。その内容を読んだ瞬間、私は背筋が凍り付くのを感じた。将の目的は、私が想像していたよりも、ずっと深く、そして危険なものだったのだ——。