新人の私に、副社長が敬語を使う理由
Chapter 1 — 新人の私に、副社長が敬語を使う理由
「鳴海さん、今日のプレゼン、完璧でしたね。特に、あのデータ分析の視点は、流石の一言です。」
優しい声が鼓膜を震わせ、咲良は顔を上げた。そこに立っていたのは、氷室奏太。大手IT企業「ネクスト・イノベーション」の若きエースであり、咲良の直属の上司、そして……密かに憧れている人だ。
「ありがとうございます、氷室さん。でも、まだまだ改善点はあると思っています。」咲良は努めて冷静に、しかし内心は激しく動揺しながら答えた。いつものように、完璧なビジネススマイルを貼り付けて。
ネクスト・イノベーション。東京の中心部にそびえ立つ高層ビルに本社を構える、業界の最先端を走る企業。咲良はそこで、入社三年目のシステムエンジニアとして働いている。仕事は多忙を極めるが、充実した日々を送っていた……少なくとも、数ヶ月前までは。
咲良の平穏な日常を打ち破ったのは、氷室奏太の異動だった。営業部から開発部へ。そして、咲良の直属の上司として、彼の存在が、否応なしに咲良の視界に入り込むようになったのだ。
氷室奏太。容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能。非の打ち所がない完璧な男性。しかし、その完璧さゆえに、どこか近づきがたい雰囲気も漂わせていた。社内では「氷の貴公子」と呼ばれることもあった。
「鳴海さん、少し時間ありますか? 今日のプレゼン資料について、いくつか確認したい点があるんです。」
「はい、もちろんです。」咲良は反射的に答えた。心臓が早鐘のように打ち始める。まるで、高校時代に憧れていた先輩と二人きりになった時のような、甘酸っぱい緊張感。
氷室は咲良のデスクの近くにあった会議室へと促した。二人の足音だけが、静かに廊下に響く。咲良は、自分の呼吸が少し早くなっていることに気づいた。会議室に入り、氷室が資料を広げ始める。
「この部分のデータ、もう少し詳細な分析結果が欲しかったんです。顧客への説得力を高めるために。」
「承知いたしました。すぐに修正いたします。」咲良は冷静を装いながら答えた。しかし、氷室の視線が、時折、咲良の顔に向けられていることに気づいていた。その視線は、まるで何かを探るように、鋭く、そして優しい。
会議室での打ち合わせは、予定よりも長引いた。気づけば、時刻は午後九時を回っていた。他の社員はほとんど帰宅し、オフィスは静寂に包まれていた。
「鳴海さん、遅くまで付き合ってくれてありがとうございます。少し疲れたでしょう?」氷室は心配そうに咲良を見つめた。
「大丈夫です。私も勉強になりました。」咲良は微笑んだ。しかし、その笑顔は、どこかぎこちなかった。
その時、氷室が突然、咲良の手を取った。「鳴海さん、実は……」
咲良は息を呑んだ。氷室の瞳が、いつもよりもずっと近くにある。その瞳には、咲良に対する特別な感情が宿っているように見えた。
「実は、君のことが……」氷室は言葉を続けようとしたが、その時、咲良のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。表示された名前は「久我優衣」。咲良の親友であり、会社の同僚だ。
「もしもし、優衣? どうしたの、こんな時間に……」咲良は戸惑いながら電話に出た。
電話口から聞こえてきたのは、優衣の焦った声だった。「咲良、大変! 氷室さんの婚約者が、会社に来てるわ! しかも、すごく怒ってるみたい!」
咲良は言葉を失った。氷室には婚約者がいたのか? そして、その婚約者が、なぜ今、会社に? 咲良は、氷室の顔を見ることができなかった。心臓が、張り裂けそうに痛んだ。