契約書の最後のページに、愛はなかった

Chapter 1 — 契約書の最後のページに、愛はなかった

「篠原さん、あなたと結婚するメリットが私には一つもないわ。」凛とした声が、ホテルの最上階にあるレストランに響いた。一ノ瀬伊織は、目の前に座る篠原隼人の顔をじっと見つめた。東京の夜景が広がる窓を背に、彼はただ静かに微笑んでいる。

伊織は一流大学を卒業後、父の経営する小さなIT企業を立て直すために奔走していた。しかし、資金繰りは常に厳しく、打開策を見つけられずにいた。そんな折、幼馴染であり、日本を代表する財閥、篠原グループの御曹司である隼人から、突然のプロポーズを受けたのだ。

「メリット、ですか。一ノ瀬さんの会社が倒産すれば、社員や取引先はどうなると思いますか?」隼人の声は低く、しかし確信に満ちていた。「私の篠原グループがバックにつけば、一ノ瀬さんの会社は安泰です。それが最大のメリットでしょう。」

伊織は唇を噛み締めた。彼の言う通りだった。会社を救うためには、隼人の申し出を受け入れるしかない。しかし、それは愛のない、打算的な結婚を意味する。彼女は幼い頃から、いつか愛する人と温かい家庭を築くことを夢見ていた。それが、今、音を立てて崩れ去ろうとしている。

「契約結婚、ということね。」伊織は静かに言った。「期間は? 条件は?」

隼人はグラスを傾け、赤ワインを一口飲んだ。「期間は三年。条件は……篠原グループのイメージを損なわないこと。そして、私の妻として、公の場では常に完璧な振る舞いをすること。もちろん、夫婦としての義務は一切求めません。」

伊織は深呼吸をした。三年。たった三年。そう言い聞かせながらも、胸の奥には言いようのない不安が広がっていく。愛のない結婚生活。それはまるで、氷の上を歩くようなものだろう。

数日後、伊織と隼人は結婚を発表した。世間は、篠原グループの御曹司と、美貌のIT社長の結婚に沸き立った。しかし、伊織の心は冷え切っていた。結婚式のリハーサルで、隼人が他の女性と親しげに話しているのを目撃してしまったのだ。その女性は、有名なモデルであり、隼人の元恋人だという噂もある。

「篠原さん、これは一体どういうことですか?」伊織は隼人に詰め寄った。しかし、彼は涼しい顔で言った。「契約結婚ですよ。一ノ瀬さんは、私の私生活に干渉する権利はありません。」

伊織は言葉を失った。契約結婚。それは、ただのビジネスパートナーとしての関係。しかし、彼女の心は、その言葉だけでは割り切れない感情に揺れていた。そして、結婚式の当日。伊織は、隼人から衝撃的な事実を告げられる。「実は……一ノ瀬さんの会社が倒産寸前だったのは、私が仕組んだことなんです。」

伊織は全身の血が逆流するのを感じた。全ては彼の策略だったのか? 彼女は、一体何のために結婚するのだろうか。混乱の中、式場に一台の黒塗りの車が到着する。中から現れたのは、見覚えのある顔——伊織の元カレだった。

「伊織、おめでとう。やっぱり君は俺の運命の人だ。」彼は伊織を抱きしめ、隼人に向かって挑戦的な笑みを浮かべた。「今日、君との結婚式をぶち壊しに来たんだ。」