社長令嬢のふりをしたら、本物の社長に見つかった

Chapter 1 — 社長令嬢のふりをしたら、本物の社長に見つかった

「結婚してください」

見慣れたはずの婚約者、七瀬湊の顔が、今日ほど冷酷に見えたことはなかった。シャンデリアの光を反射する彼の黒い瞳は、まるで獲物を定める獣のよう。震える指先を必死に隠しながら、私は作り笑いを浮かべた。「湊様、何を仰っているんですか?冗談でしたら、笑えませんわ」

「冗談ではない。君との婚約は破棄する。そして、伊達奈央と結婚する」

衝撃で息が止まる。伊達奈央。湊様が秘書として雇った、あの控えめな女性。まさか、二人が……。

ここは、七瀬グループの本社最上階にある、私のオフィス。見渡す限りの東京の夜景が、まるで私の絶望を嘲笑うかのように輝いている。私は橘早紀。橘グループの令嬢であり、七瀬グループの御曹司、七瀬湊の婚約者。表向きは華麗なる一族同士の政略結婚。しかし、私は湊様を心から愛していた。

「なぜですか?私に何か落ち度がありましたか?」震える声で尋ねるのが精一杯だった。プライドも何もかも捨てて、ただ理由が知りたかった。

湊様は、冷たい視線を私に向けた。「君は橘グループの道具に過ぎない。私には、真実の愛が必要だ」

真実の愛……。その言葉が、私の胸に突き刺さる。今まで湊様のために、私はどれだけの努力をしてきたのだろうか。彼の父である会長に取り入るために、苦手な社交界にも顔を出し、七瀬グループのために橘グループの資源を惜しみなく提供してきた。それなのに、私はただの道具だったというのか。

「奈央は違う。彼女は私を愛している。損得勘定抜きで、ただ私自身を」

その言葉を聞いた瞬間、私は悟った。これは、単なる浮気ではない。湊様は本気で伊達奈央に惚れているのだ。そして、私との婚約を破棄して、彼女と結婚するつもりなのだ。

「わかりました」私は、平静を装って答えた。「湊様の意思は尊重いたします。婚約破棄を受け入れます」

湊様は、意外そうに眉をひそめた。「そうか。案外、あっさりしているな」

「当然ですわ。私だって、湊様に執着するような女ではありません」強がってそう言ったものの、心の中は嵐のようだった。

「だが、一つだけ条件があります」湊様は、薄い笑みを浮かべた。「婚約破棄の条件として、橘グループの株、51%を譲渡してもらう。それがなければ、婚約破棄は認めない」

私は息をのんだ。橘グループの株、51%。それは、橘グループの経営権を意味する。湊様は、最初からそれが目的だったのか?私との結婚は、橘グループを手に入れるための手段に過ぎなかったのか?

「それは……」言葉が出なかった。橘グループは、私の父が一代で築き上げた会社だ。それを湊様に渡すことは、父を裏切ることになる。

「それが嫌なら、婚約を続けるしかないな」湊様は、冷酷な笑みを深めた。「どちらを選ぶかは、君次第だ」

私は、絶望の淵に立たされた。愛する人に裏切られ、家族を裏切るか、会社を裏切るかの選択を迫られている。どちらを選んだとしても、私の未来は、薔薇色ではなく、漆黒の闇に染まるだろう。

その時、背後から聞き慣れた声が響いた。「お嬢様、いけません!」

振り返ると、長年私に仕えてきた執事の黒崎が、青ざめた顔で立っていた。彼は、湊様の要求を全て聞いていたのだろう。黒崎は、私に近づき、耳元で囁いた。「お嬢様、ここは私にお任せください。私は、お嬢様をお守りいたします」

次の瞬間、黒崎は、懐から何かを取り出した。それは、光を反射する銀色の銃だった。

「湊様、申し訳ございません。ですが、お嬢様を傷つける者は、誰であろうと許しません!」黒崎は、銃口を湊様に向けて叫んだ。

私の目の前で、信じられない光景が繰り広げられようとしていた。黒崎は、一体何をするつもりなのか?

湊様の冷酷な笑みが、さらに深まった。「面白い。だが、無駄だ。黒崎、お前も橘グループの犬に過ぎない。私を撃てるはずがない」

黒崎の指が、引き金にかけられた。その瞬間、私はすべてを理解した。黒崎は、私を守るために、湊様を殺すつもりなのだ。私は、必死に叫んだ。「やめて!黒崎!」

しかし、私の声は、空を切った。乾いた銃声が、オフィスに響き渡った。

次に何が起こるのか、私はまだ知らない。ただ、私の運命が大きく変わろうとしていることだけは、確信していた。そして、この夜が、私の人生を永遠に変える夜になるだろうと……。