営業部のエースが、給湯室でだけ笑う理由
Chapter 1 — 営業部のエースが、給湯室でだけ笑う理由
「桜井さん、また残業ですか?」
背後からかけられた声に、肩がビクリと跳ね上がった。振り返ると、同じ部署の明石千歳が、心配そうな顔で立っている。
「ああ、ちょっとね。このプロジェクト、明日が締め切りだから」
僕は、桜井昂。大手広告代理店「電通クリエイティブ」の営業部に所属する、ごく普通のサラリーマンだ。唯一、普通じゃないのは、僕の部署の課長が、大学時代の元カノ、百瀬沙也加だということ。
「無理しないでくださいね。百瀬課長も、桜井さんのこと心配してましたよ」
千歳の言葉に、胸がチクリと痛む。心配、ね。それは、元カレとしての心配なのか、部下としての心配なのか。今の沙也加には、僕には、まるで分からない。
大学時代、僕たちは恋人だった。同じサークルで出会い、惹かれ合い、将来を誓い合った。けれど、卒業を前に、沙也加は突然、僕に別れを告げた。「昂とは、住む世界が違う」と。当時、百瀬家は政界にも影響力を持つ名家だと聞いた。
あれから十年。まさか、彼女が僕の上司になるとは、夢にも思わなかった。再会した沙也加は、美しく、強く、そして、冷たくなっていた。
「ありがとう、千歳。でも、大丈夫。終わらせて帰るよ」
僕は、そう言って、パソコンに向き直った。モニターに映る企画書は、まるで沙也加の心のようだ。複雑で、掴みどころがない。何度も書き直しているのに、なかなか彼女のOKが出ない。
「桜井君、ちょっといいか」
背後から沙也加の声が聞こえた。心臓が跳ね上がる。ゆっくりと振り返ると、沙也加はいつものように、クールな表情で立っていた。
「この企画書、もう一度見直してほしい。特に、ターゲット層の分析が甘い」
「はい、課長。承知いたしました」
僕は、頭を下げる。沙也加の言葉は、いつも的確で、容赦がない。まるで、僕の未練を断ち切るかのように。
「それと、明日、役員会議がある。君も同席するように」
「え……」
予想外の言葉に、僕は言葉を失った。役員会議は、幹部しか参加できないはず。なぜ、僕が?
「君の企画が、役員の目に留まったんだ。プレゼン、頑張ってくれ」
沙也加は、そう言うと、踵を返して歩き出した。その背中は、遠く、届かない。
役員会議。それは、僕にとって、千載一遇のチャンスであると同時に、沙也加との距離がさらに遠くなることを意味していた。
翌日。役員会議室に入ると、重々しい空気が漂っていた。役員たちが、鋭い視線を僕に向けている。そして、その視線の先に、沙也加がいた。沙也加は、僕に微笑みかけた。その笑顔は、まるで、僕を罠にかけるかのように、美しかった。プレゼンが始まった瞬間、突然、会場の電気が消えた。悲鳴があがる。非常灯が点灯し、沙也加の姿を探すと、彼女は冷たい床に倒れていた。