喧嘩の後のコーヒーは、なぜか甘い

Chapter 1 — 喧嘩の後のコーヒーは、なぜか甘い

「久我さん、例のプレゼン資料、まだですか?」

表参道の広告代理店、株式会社アド・フロンティア。その一室で、私の名前を呼ぶ、冷たい声が響いた。鷹取恭介。社長の息子にして、私の直属の上司。眉目秀麗、頭脳明晰。けれど、性格は最悪。少なくとも、私にとっては。

「申し訳ありません、鷹取さん。ただいま最終調整を…」

言い訳は無意味だとわかっている。彼の視線は氷のように冷たく、私の言葉を遮る。

「言い訳はいい。結果が全てだ。君の部署の業績不振は目に余る。このプレゼンが失敗すれば…わかるね?」

ああ、わかっている。クビだ。アド・フロンティアに入社して三年。やっと掴んだ正社員の座。それが、鷹取恭介という男によって、今まさに奪われようとしている。

彼はいつもそうだ。完璧主義者で、他人にもそれを強要する。少しでもミスをすれば、容赦なく切り捨てる。まるで、私を陥れることを楽しんでいるかのように。

「…努力します」

それしか言えなかった。悔しさと、情けなさで、喉が詰まる。

鷹取さんは、薄い笑みを浮かべた。「期待しているよ、久我さん」

その言葉が、私をさらに追い詰める。

プレゼン当日。資料は完璧に仕上げたつもりだった。何度も見直し、修正を重ね、自信もあった。けれど、鷹取さんの鋭い質問に、私は言葉を詰まらせてしまった。

「久我さん、このデータは古いのではないですか?最新の市場動向と照らし合わせると、矛盾が生じます」

頭が真っ白になった。そんなはずはない。確認したはずなのに。

「申し訳ありません…確認不足でした」

鷹取さんの顔は、さらに険しくなった。プレゼンは失敗に終わった。案の定、その日の夕方、鷹取さんに呼び出された。

「久我さん、君には失望したよ。期待していた分、落胆も大きい」

予想通りの展開だった。覚悟はしていたけれど、やはり、胸が痛む。

「つきましては、君に提案がある」

提案?クビを言い渡されると思っていた私は、思わず聞き返した。

「…どんな提案ですか?」

鷹取さんは、ゆっくりと椅子に寄りかかり、薄い笑みを浮かべた。

「僕と、偽装結婚しないか?」

時が止まった。何を言っているのか、理解できなかった。偽装結婚?鷹取恭介と?私が?

「…え?」

「君が会社に残るための、唯一の方法だ」

鷹取さんの言葉は、予想外の展開へと私を導く、禁断の扉を開けた。

彼の真意はどこにあるのか?これは一体、何なのだろうか。

信じられない申し出に、私はただただ、立ち尽くすしかなかった。