一億円の結婚と、五百円の幸せ
Chapter 1 — 一億円の結婚と、五百円の幸せ
「影山さん、お願いがありますの。」
見慣れたはずの婚約者の顔が、今日ばかりは酷く他人行儀に見えた。桂柚希は、いつも完璧な微笑みを湛えている。その美しさは、まるで能面のように感情を隠しているのだ。しかし、今は違う。その奥に、確かな焦燥が垣間見えた。
「どうしたんだ、柚希。そんなに改まって。」
影山碧は、桂グループの令嬢である柚希と、政略結婚を前提とした婚約関係にある。表向きは誰もが羨む理想のカップルだが、実態は互いの利害関係が一致しただけの、冷え切った関係だった。
「父が、どうしても見合いをさせようとするんです。相手は……東条グループの御曹司、東条悠真さん。」
東条グループの名を聞いて、碧は眉をひそめた。影山グループにとって、東条グループは長年のライバルだ。柚希が見合いをすること自体、グループ間の勢力図を大きく変えかねない事態だった。
「それで、僕に何を頼みたいんだ?」
柚希は、意を決したように碧の目を見つめた。「お願いです。私と、偽の恋人になってくれませんか? 東条さんとの見合いを断るための、ただの言い訳でいいんです。」
碧は、一瞬言葉を失った。偽の恋人……。ありえない話ではない。むしろ、現状を打破するための、唯一の手段かもしれない。しかし、そんなことをすれば、当然、リスクも伴う。
「偽の恋人、か。面白い提案だ。」碧は、口元に笑みを浮かべた。「だが、僕にもメリットがないとな。君が僕に偽の恋人役を頼むということは、それなりの覚悟が必要だということだ。」
柚希は、覚悟を決めた顔で頷いた。「分かっています。影山さんの条件は何ですか?」
碧は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。そして、静かに口を開いた。「僕の条件は……君に、僕の会社のプロジェクトを手伝ってもらうことだ。内容は、まだ秘密だがね。」
柚希は、驚いた表情で碧を見つめた。プロジェクト? それは一体、何に関わるものなのか。影山グループと桂グループの、今後の関係を大きく左右するかもしれない。彼女は、その危険な取引に乗るべきなのか——。
「……分かりました。その条件、飲みます。」
柚希の決意を聞き、碧は満足そうに微笑んだ。「いい返事だ。では、明日から、僕たちは偽りの恋人として、お互いを演じよう。」
その夜、影山邸の静寂を破るように、碧の携帯が鳴り響いた。画面には、『黒崎』の文字。彼は、苦々しい表情で電話に出た。「なんだ、黒崎。こんな時間に。」
電話の向こうから、焦った声が聞こえてきた。「大変です、影山さん。桂グループの株価が、急落しています!」
碧は、思わず息を呑んだ。株価の急落……。それは、柚希との契約結婚どころではない、影山グループ全体を揺るがす事態に発展する可能性を秘めていた。「一体、何があったんだ?」碧の声は、明らかに動揺していた。黒崎は、さらに声を低めて言った。「どうやら、東条グループが裏で手を引いているようです……。」
碧は、携帯を握りしめた。東条グループ……。最初から、全て仕組まれていたのか? 柚希との偽りの恋人契約は、果たして吉と出るか、凶と出るか。彼の心は、嵐の前の静けさのように、張り詰めていた。
その時、再び携帯が震えた。今度は、柚希からだった。
「影山さん……大変です。父が、倒れました……!」