退職届を出した日に、上司から告白された
Chapter 1 — 退職届を出した日に、上司から告白された
「五十嵐さん、ちょっとよろしいですか?」
朝一番、凛とした声がオフィスに響いた。声の主は、うちの会社の敏腕美人秘書、鳳律さん。彼女に呼ばれる時は、大抵ロクなことがない。心臓が小さく跳ねるのを感じながら、僕は彼女のデスクへと向かった。
「おはようございます、鳳さん。何かありましたか?」
僕はできるだけ平静を装って尋ねた。律さんはいつもと変わらぬ、完璧な笑顔を湛えている。それが逆に怖い。
「おはようございます、五十嵐さん。実は、今日予定されていたフランスからのVIP、ジャン=ピエール・デュポン氏のアテンドですが……」
彼女は一呼吸置いて、言った。「急遽、五十嵐さんにお願いすることになりました」
予想外の言葉に、僕は思わず息を呑んだ。デュポン氏といえば、世界的に有名な高級香水ブランドのCEO。そのアテンドは、本来、営業部のエースである黒崎さんが担当するはずだった。
「え? 黒崎さんは?」
「黒崎さんは、ご家族のご都合で急遽お休みを取られたそうです。詳細は伏せるようにとのことでした」
律さんの口調はあくまで事務的だ。しかし、その裏に何か事情があることは明らかだった。まさか、あの黒崎さんが、こんな大事な仕事を放り出すなんて。
「しかし、僕は広報部ですし、フランス語も話せません……」
僕は正直に伝えた。アテンドなんて、やったことがない。しかも、相手はフランス語しか話せないらしい。
律さんは、少し困ったように眉をひそめた。「それは承知しています。ですが、デュポン氏は日本文化に大変興味をお持ちで、特に日本の庭園がお好きだと伺っています。五十嵐さんは、大学時代に庭園研究会に所属されていたと聞きましたので、白羽の矢が立ったというわけです」
なるほど、それで僕に白羽の矢が立ったのか。確かに、大学時代は庭園研究会に明け暮れ、京都の庭園を巡る日々を送っていた。しかし、それはもう十年以上も前の話だ。それに、相手は世界のVIP。そんな知識で、果たして務まるのだろうか。
「フランス語に関しては、私が通訳として同行しますのでご安心ください。五十嵐さんは、庭園に関する知識でデュポン氏をもてなしていただければ」
律さんの言葉に、少しだけ安堵した。彼女が一緒なら、何とかなるかもしれない。
「わかりました。精一杯務めさせていただきます」
僕は覚悟を決めた。思わぬ大役だが、これを乗り越えれば、きっと何か新しい道が開けるはずだ。
「ありがとうございます、五十嵐さん。それでは、詳細について説明します」
律さんは、スケジュールやデュポン氏の好みなどについて、丁寧に説明してくれた。彼の滞在は三日間。その間、僕は彼を京都の有名な庭園に案内することになった。
その日の午後、僕は律さんと共に、京都へと向かう新幹線に乗り込んだ。車窓から見える景色は、徐々に都会の喧騒から離れ、緑豊かな山々に変わっていく。僕は、これから始まる三日間に、期待と不安が入り混じっていた。
京都に着き、ホテルにチェックインした後、僕たちはデュポン氏との夕食会に参加した。デュポン氏は、想像していたよりも気さくな人物で、日本の文化や庭園について熱心に質問してきた。僕は、大学時代の知識を総動員して、彼の質問に答えた。律さんの通訳のおかげもあり、夕食会は和やかな雰囲気で終わった。
夕食後、ホテルに戻った僕は、明日の庭園巡りのために、資料を読み返した。すると、律さんが僕の部屋を訪ねてきた。
「五十嵐さん、少しお話があります」
彼女の表情は、どこか深刻だった。一体何が起こったのだろうか。僕は、彼女の言葉に耳を傾けた。
「実は……黒崎さんがお休みを取られた本当の理由を知ってしまったんです」
律さんの言葉に、僕は息を呑んだ。黒崎さんの休みの理由。それが、今回の突然のアテンド変更に関係しているのだろうか。
「黒崎さんは……デュポン氏の娘さんと、過去に何かあったようなんです」
律さんの言葉は、まるでドラマのようだった。まさか、そんな過去があったとは。
「それで、黒崎さんはデュポン氏と顔を合わせたくなかった。だから、急遽お休みを取ったんだと思います」
律さんの言葉に、僕は衝撃を受けた。そんな個人的な事情で、会社の重要な仕事を放り出すなんて、ありえない。しかし、同時に、黒崎さんの気持ちも少しだけ理解できた。過去の恋人と、よりによって仕事で再会するなんて、想像するだけで恐ろしい。
「でも、どうしてそれを僕に?」
僕は、律さんの意図がわからなかった。なぜ、彼女はこんな秘密を僕に打ち明けたのだろうか。
「五十嵐さんには、知っておいていただきたかったんです。明日からの庭園巡りは、もしかしたら、思わぬ展開になるかもしれません」
律さんの言葉に、僕は背筋が寒くなるのを感じた。思わぬ展開? 一体何が起こるのだろうか。デュポン氏の娘さんが、突然現れるのだろうか?
「明日、デュポン氏の娘さんも一緒に庭園を回ることになったそうです」
律さんは、そう言って、深々と頭を下げた。「五十嵐さん、明日から、どうかお気を付けて」
彼女は、それだけ言うと、部屋を出て行った。部屋には、静寂だけが残された。僕は、明日からの庭園巡りが、とてつもなく波乱に満ちたものになることを予感していた。
明日は、嵐になるかもしれない。