神戸の港で拾った、あの日の手紙
Chapter 1 — 神戸の港で拾った、あの日の手紙
降り止まない雨の中、傘もささずに立ち尽くす私を見て、彼は何を思ったのだろうか。いや、彼はもう、何も思わないのかもしれない——三年前に、私が全てを壊したのだから。
「雛、そんなところで何してるんだ?」
背後から聞こえた声に、心臓が跳ね上がった。振り向くと、そこに立っていたのは、やはり彼、真壁順だった。あの日のように優しい笑顔を湛え、少しだけ困ったように眉を寄せている。
「…順、さん」
三年ぶりに呼ぶ彼の名前に、喉が詰まる。あの頃は、毎日当たり前のように呼んでいたのに。今はもう、他人行儀な敬語しか出てこない。
「ずいぶんと久しぶりだな。元気だったか?」
順はゆっくりと歩み寄り、私の顔を覗き込んだ。見慣れたはずのその顔は、少し大人びて、そして、どこか冷たさを帯びているように感じられた。気のせいだろうか。それとも、私に対する彼の感情が、そう見せているのだろうか。
「…はい、おかげさまで。順さんも、お元気そうで」
精一杯平静を装った声で答える。内心は、嵐のように激しく波打っているのに。あの時、別れを告げたあの日から、私の時間は止まったままだった。
「そうか。それはよかった」
順はそう言うと、少しだけ視線を逸らした。その一瞬の沈黙が、私には耐え難かった。言いたいことは山ほどあるのに、何も言えない。あの時のことを謝りたい、もう一度やり直したい——そんな言葉が、喉の奥で絡みついて、声にならない。
「…あの、順さん」
勇気を振り絞って声をかけた。しかし、順はそれを遮るように、口を開いた。
「実は、今日、雛に会いに来たんだ」
予想外の言葉に、息を呑んだ。何故、今更? 三年も経って、どうして?
「…何か、用でも?」
恐る恐る尋ねると、順は静かに頷いた。
「ああ。君に、紹介したい人がいるんだ」
そう言って、順は背後を振り返った。そして、そこには——ウェディングドレスを身にまとった、美しい女性が立っていた。
「彼女は、僕の婚約者だ」
その言葉は、私の心臓を射抜いた。雨はさらに激しく降りしきり、私の視界を滲ませた。順の婚約者……まるで、残酷な夢を見ているようだった。これが、私への罰なのだろうか。
「近いうちに結婚する。今日は、君に一番に伝えたくて」
順の顔は、どこまでも穏やかだった。まるで、三年前に私を深く傷つけた男とは、別人であるかのように。私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「…おめでとうございます」
絞り出すように言ったその言葉は、雨音にかき消されそうだった。順は微笑み、婚約者の女性と共に、その場を後にした。残された私は、一人、雨の中に立ち尽くし、深く後悔の念に苛まれた。あの時、違う選択をしていれば……。しかし、時間は巻き戻せない。もう、手遅れなのだ。
その夜、私は夢を見た。三年前に別れを告げた、あの日の夢を。そして、夢の中で、私は再びあの選択を迫られる——「さようなら、順さん」と。しかし、今回は違う。夢の中の私は、震える声で、こう叫んだ。「行かないで!」
目覚めると、枕は涙で濡れていた。そして、私の手には、一枚の古い写真が握られていた。それは、三年前に順と二人で撮った、あの日の写真だった。写真の中の私たちは、幸せそうに笑っている。その笑顔が、今の私には、あまりにも眩しすぎた。突然、スマホが震えた。画面には、見慣れない番号が表示されている。
『明日の午後三時、表参道のカフェで待っています。——真壁順』
一体、彼は何を考えているのだろうか。婚約者がいるのに、私に会う必要があるのだろうか。疑念と期待が入り混じり、私の心は激しく揺さぶられた。しかし、行かなければならない。そう思った。もしかしたら、まだ、やり直せるかもしれない——そんな、淡い希望を抱いて。
明日、私は再び順と会う。そこで、一体何が起こるのだろうか。そして、私の運命は、どう変わっていくのだろうか……。