条件は「好きにならないこと」でした
Chapter 1 — 条件は「好きにならないこと」でした
「結婚してください」
表参道ヒルズのカフェ、窓際の席に座る紅林悠真は、アイスコーヒーを一口飲むと、まるで天気の話でもするようにそう言った。冬木莉子は、目の前のイケメン御曹司の言葉が、脳に到達するまで数秒を要した。
「…え?」
莉子は小さなデザイン事務所で働くOL。実家の借金返済に奔走する日々だ。まさか自分が、こんなドラマみたいな展開に巻き込まれるなんて、想像もしていなかった。
「聞こえなかったですか? 冬木さんと、契約結婚したいんです」
悠真は、紅林グループという名門財閥の跡取り息子。整った顔立ち、物腰柔らかな態度。完璧に見える彼が、なぜ自分に? 疑問符が、莉子の頭の中を埋め尽くす。
「理由をお伺いしても?」
少しでも冷静さを保とうと努めながら、莉子は尋ねた。まさか、一目惚れ…なんてことはありえないだろう。
悠真は少し苦笑した。「跡取りとしてのプレッシャーから逃れたいんです。結婚適齢期ですし、親も結婚しろとうるさい。でも、好きでもない相手と結婚するのはごめんです」
「それで、私に白羽の矢が立った、と?」
「冬木さんは、僕の理想の結婚相手の条件に合致するんです。第一に、僕のことを好きにならないだろう。第二に、ある程度の社交性がある。そして第三に…」
悠真は言葉を区切り、莉子の目をまっすぐ見た。「僕の秘密を守ってくれる」
秘密? 一体どんな秘密を抱えているのだろう。財閥の御曹司の世界は、想像以上に複雑らしい。
「契約結婚、ですか…。具体的には、何をすれば?」
「簡単です。僕の妻として、紅林家の行事に出席してもらう。親戚や取引先には、愛し合って結婚した夫婦だと思わせる。それだけです」
「期間は?」
「一年です。一年後には、円満離婚という形で関係を解消します。もちろん、相応の謝礼は支払います」
一年で借金返済の目処が立つほどの金額…。莉子の心が揺れる。断る理由はない。…いや、一つだけある。
「条件があります」
莉子は意を決して言った。「私も、あなたを好きにならないこと。それが条件です」
悠真は少し驚いた顔をした後、微笑んだ。「承知しました。僕も、冬木さんのことを好きになるつもりはありません」
契約は成立した。数日後、莉子は紅林家本家で行われるお披露目会に出席することになった。豪華絢爛な邸宅に足を踏み入れた瞬間、莉子は息を呑んだ。そこには、別世界の住人たちがいた。そして、その中に、見覚えのある顔が…。
「…伊達?」