残業の理由が、あなただなんて言えない
Chapter 1 — 残業の理由が、あなただなんて言えない
「また、こんな時間まで…」
終電間近のオフィスで、小鳥遊和也は小さく息を吐いた。株式会社アド・フューチャー。大手広告代理店の夜は、蛍光灯の光だけがやけに眩しい。
窓の外には東京タワーが、まるで宝石のように輝いている。その光景とは裏腹に、和也の心は鉛のように重かった。抱えている企画のプレゼン資料は、まだ完成には程遠い。
「小鳥遊くん、まだいたのか」
背後から優しい声が聞こえ、和也の肩が跳ね上がった。声の主は、黒崎颯太。アド・フューチャーの御曹司であり、和也がひそかに想いを寄せる相手だ。
黒崎は、いつも完璧だった。容姿端麗、頭脳明晰、誰にでも優しく、そして何よりも…手が届かない存在だった。
「黒崎さん…!お疲れ様です」
和也は慌てて立ち上がり、ぎこちなく頭を下げた。黒崎は微笑みながら、和也のデスクに近づいてきた。
「君も大変だね。その企画、かなり難航していると聞いたよ」
「はい…。なかなかクライアントの意向に沿えず…」
和也は苦笑いを浮かべた。黒崎に見られているだけで、心臓が早鐘のように打ち始める。残業の理由は、決して仕事の遅さだけではない。黒崎に少しでも長く会いたい、そんな気持ちが和也をオフィスに縛り付けていた。
「何か手伝えることがあれば言ってくれ。遠慮はいらないよ」
黒崎の言葉は、まるで天使の囁きのようだった。しかし、和也は首を横に振るのが精一杯だった。「ありがとうございます。でも、大丈夫です。もう少し頑張ってみます」
黒崎は少し残念そうな表情を浮かべたが、「無理はしないでね」と言い残し、オフィスを後にした。
黒崎の姿が見えなくなると、和也は再び椅子に座り、パソコンに向き合った。しかし、集中力は完全に途切れていた。黒崎の優しい言葉が、頭の中でリフレインする。
(どうして、こんなに優しいんだろう…)
その時、和也のスマートフォンが着信を告げた。画面に表示されたのは、「月宮月乃」の名前。同じ広告代理店に勤める、和也のライバルだ。
「もしもし、月宮さん?こんな時間にどうしたんですか?」
電話の向こうから、月宮の冷たい声が聞こえてきた。「小鳥遊くん、大変なことになったわよ。黒崎さんが、お見合いするらしいの」
和也は息を呑んだ。お見合い…?黒崎が、誰かと結婚する?
「…それ、本当ですか?」
「ええ、確かな情報よ。相手は、大企業の社長令嬢らしいわ。アド・フューチャーのためには、政略結婚も仕方ないってことかしらね」
月宮の声は、どこか楽しそうだった。和也の動揺を、見透かしているかのようだ。
「…そんな…」
和也は言葉を失った。黒崎の結婚。それは、和也の秘めたる想いが、永遠に届かないことを意味していた。
「諦めるの?小鳥遊くん」
月宮は挑発するように言った。「それとも、何か手があるのかしら?」
和也は、無意識に拳を握りしめていた。その時、月宮が信じられない提案をしてきた。「…偽装婚約、してみない?黒崎さんと」