嘘つきな婚約者

Chapter 1 — 嘘つきな婚約者

「奈央、結婚しようか」

週末の表参道。カフェのテラス席で、如月奈央太朗は涼しげな顔でそう言った。目の前の男は、日本を代表する財閥、如月グループの御曹司。私、千早奈央は、中堅IT企業の企画部に勤める平凡なOL。まるでドラマのようなシチュエーションだが、現実はもっと打算的だ。

「…承知いたしました、凛太朗様」

私は作り笑いを浮かべた。心臓が早鐘のように打ち、喉がカラカラに乾いている。この結婚は、両家の思惑が絡み合った政略結婚。恋愛感情など、微塵も存在しない。いや、正確には、過去には存在したのかもしれない。

凛太朗様とは、学生時代に一度だけ、ほんの短い間だけ、恋人同士だったことがある。お互いの家柄の違いを理由に、彼の父親である如月会長に引き裂かれた。それ以来、私たちは別の道を歩んできたはずだった。

「奈央は相変わらず、つまらない女だな」

凛太朗様はそう呟くと、エスプレッソを一口飲んだ。彼の言葉には棘があり、私の心をチクリと刺す。それでも、私は平静を装うしかなかった。この結婚は、私の家族にとっても大きな意味を持つからだ。

父の会社は経営難に陥っており、如月グループの支援がなければ倒産は免れない。私はそのことを知っているから、凛太朗様の申し出を断ることはできなかった。

「結婚式は、桜の咲く頃にしよう。場所は、軽井沢の教会で」

凛太朗様は淡々と結婚式の段取りを決めていく。私はただ、頷くことしかできない。

カフェを出ると、表参道の並木道は夕日に照らされていた。人々の楽しそうな笑い声が、私の耳に突き刺さる。私は、本当にこれでよかったのだろうか。愛のない結婚生活が、私を待ち受けている。

その夜、私は自宅マンションで一人、婚約指輪を眺めていた。それは、凛太朗様が私に贈った、豪華なダイヤモンドリング。しかし、その輝きは、私の心を照らすことはなかった。

ふと、携帯電話が鳴った。画面には、見慣れない番号が表示されている。誰だろうと思いながら、私は電話に出た。

「…もしもし?」

電話口から聞こえてきたのは、聞き覚えのある、甘く優しい声だった。

「奈央…久しぶりだね。俺のこと、覚えてる?」

その声の主は、私の心の奥底にしまい込んでいた、過去の恋人だった。

「暖…?」

信じられない思いで、私は彼の名前を呟いた。彼がなぜ、今、私に電話をかけてきたのだろうか。そして、これから私の運命は、どうなってしまうのだろうか……。

電話を切った後、私は震える手で、再び婚約指輪を見つめた。ダイヤモンドは、妖しく光を放っていた。